次の記事を読み、深く考えさせられました。
記事の筆者は訪問診療を専門とする医師で、埼玉県ふじみ野市で発生した立てこもり事件について、猟銃で射殺された医師と同じ訪問診療医としての見解を述べています。
私は読みながら、筆者のような医師と関わることができた患者さんやその家族は幸せだと思いました。
それを特に感じたのは、筆者の「看取りのゴールはご遺族の納得ですから」という言葉です。
私の場合、主人の両親と私の父は病院で亡くなり、母は介護施設で亡くなりました。
母だけが病気ではなく老衰による自然死だったのですが、子供である私と妹2人で話し合って延命処置はしないでほしいと医師に伝えていたため、母は少しずつ弱って亡くなりました。
でも、母が亡くなってからずっと、「これで良かったのか」と自分に問う日が続いたのです。
母は認知症を患っていたため延命治療をしないことを決めたのは本人ではないこと、飲食を受け付けなくなって痩せてしまい、亡くなるときには別人のようだったことが「良かったのか?」となってしまったのだと思います。
記事の中に次の文面があり、私の場合も母を看取ってくれた医師から言葉かけがあれば、長い間自分に問うことをしなかっただろうと思いました。
時間がたつと、「治療しないという選択で良かったんだろうか」「治療をすれば、母は今も元気でいられたんじゃないか」と、うつうつと回想する方もいます。ですから、ちょっと時間をおいて訪問して、お話を聞かせていただくと、1時間も2時間も思いをお話しになる方がいらっしゃいます。その時に私たちの口から、「一番いい選択で、お母さんも納得されていると思います」と言うと、安堵される方がいます。
埼玉の立てこもり事件で被害に遭った医師のことを思うと、二度と同じようなことが起きないよう願わずにはいられません。
「グリーフケア(悲嘆のケア)」の大切さを考えさせられた記事でした。