ピンピンコロリは最悪な死に方?

常々ピンピンコロリと死にたいと思っていた私は、関心を持って次の記事を読みました。

ピンピンコロリは「最悪な死に方」である…高齢者医療のプロが「PPKを目指してはいけない」と訴えるワケ 「理想的な逝き方」が根付く社会は息苦しい
外来診療をしていると、「要介護状態になりたくない」「他人の世話になってまで長生きしたくない」という声をよく聞きます。とくに高齢の患者さんからは「もう十分生きた。早くお迎えが来てほしい。治療やリハビリ…

亡くなった時に「昨日まで元気だったのに」「家族に迷惑かけずに亡くなったのね」などと言われるだろうと思い、私はピンピンコロリと死にたいと思っていたのです。

義父も実家の父も長い闘病生活を送りました。

一番辛かったのは本人だと思いますが、支える家族もたいへんでしたので、闘病せずにある日突然亡くなれば本人の苦痛も少ないでしょうし、家族への負担も少ないだろうと思っていたのです。

そう思っていた私は、この記事を読み終えてしばらくは天井を眺めながらぼーっとするしかありませんでした。

なぜなら、医師である筆者の見解に完全に納得させられてしまったからです。

記事には、予測され得なかった二つの事例が紹介されています。

そして、その事例の後に次の文面が続いていました。

PPK(ピンピンコロリ)に厳密な定義があるわけでもありませんし、個人個人でPPKの意味やとらえかたが異なるとは思いますが、直前まで元気にしていてコロっと死ぬというのは、これらの例のような、いわば予測され得なかった突然死ということになります。
つまり、その急変の瞬間を目撃、共有した人は100パーセント救急車を呼ぶなり、即座に救命救急処置を開始することになり、これらは通常避けられません。

逆に、現在の日本において、つい先ほどまで元気に話をしていた人の呼吸や心拍が急に止まっているのを確認したにもかかわらず、ベッドに寝かせたまま“平穏に看取る”という選択をした人は、なぜそのような対応をしたのか、なぜ救急車を呼ばなかったのか、厳しく問われるとともに、あらぬ疑いをかけられる危険性すらあるといえるでしょう。
これらのシミュレーションからいえることは、現在のわが国におけるPPKとは、住み慣れたわが家のベッドで家族に看取られて平穏な最期を迎えるのとはまったく真逆の環境で起きるということです。

そして、次が続いていました。

もしかすると過去に行ったこともない病院の救急室、しかも家族の立ち入りを禁じられた冷たい救急室の中で、人工呼吸器をはじめとしたあらゆる装置につながれ、採血や点滴の針を四肢に刺され、心臓マッサージをされ……というフルコードの処置のあげくの果てに、人生で初めて会う人たちだけに囲まれて最期を迎えることになる可能性が極めて高いものである、という認識は持っておいたほうが良いでしょう。

記事を読み終えてしばらくぼーっとしてしまいましたが、「寝たきりになっても」「認知症になっても」不安なく穏やかに最期を迎えたいとの希望を持つ人が安心して過ごせる社会を、いかに作っていくかということです。という筆者の見解が深く心に残りました。

重要なのは「寝たきりにならないために」「認知症にならないために」ばかりに集中して対策することではなく、「寝たきりになっても」「認知症になっても」不安なく穏やかに最期を迎えたいとの希望を持つ人が安心して過ごせる社会を、いかに作っていくかということです。そしてそのように高齢者が真に安心して生活できる社会であれば、「PPKは理想的な逝き方」などと、それほど言われることもないでしょう。

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